≪解題≫
【史料種別】 特殊蒐書 |
【蒐書名】
堀内健二郎氏寄贈資料
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【解題】
2012(平成24)年1月、東京都板橋区在住の堀内健二郎氏より、本所に対して寄贈された。本所の影写本「堀内文書」(3071.64-26)は、1890(明治23)年、兵庫県篠山町在住の堀内令順氏所蔵の文書を影写したものだが、健二郎氏は令順氏の孫にあたる由である。もっとも、影写本に見える文書の原本は、戦災のためすべて失われたとのことで、健二郎氏よりの寄贈品には含まれていない。文書の内容を謄写したものや、堀内家の系図・由緒書などが、寄贈品の中心となっている。それらの多くは、近世後期から明治・大正期の成立であると思われる。 文書の謄写は、表題に「少数欠」と注記されている通り、影写本に見える文書と完全には対応していない。系図・由緒書は、近世・近代を通じて書写が繰り返されたらしく、ほぼ同じ内容と思われるものが、新旧数種ずつ存在している。新しいところでは、1916(大正5)年、健二郎氏の伯父三郎氏の手によるものがある。三郎氏は海軍士官であったとのことで、寄贈品の中には同氏の軍人としての履歴を示す書類も含まれている。 影写本「堀内文書」には、戦国大名北条氏の一族で、相模玉縄(神奈川県鎌倉市)に拠った、いわゆる玉縄北条氏から与えられた文書が多数収められている。ただし、その多くは、偽文書であると考えられている。祖先の事績の粉飾が行なわれたわけであり、寄贈品に含まれる系図・由緒書の記事も、どこまで信用してよいか判断が難しい。しかし、玉縄北条氏の家臣であったこと自体は、おそらく事実なのであろう。系図・由緒書に交じって、万治元(1658)年霜月日「北条氏重公家中侍并ニ御領分村々覚」と題する一巻がある。本家の小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされたが、玉縄北条氏は17世紀まで生き延びた。6代目の氏重(ただし他家からの養子)は遠江掛川(静岡県掛川市)で晩年を過ごし、万治元年10月に死去、継嗣がなかったため同氏は断絶した(「寛政重修諸家譜」)。上記「北条氏重公……」は、粉飾がないとすれば、玉縄北条氏最末期の人員と領地を伝えるものであり、また、粉飾の有無にかかわらず、この時点まで堀内氏が玉縄北条氏の家臣であったことをうかがわせる。その後、ある時期に丹波篠山に移り、明治維新を経て、上記令順氏の代に至ったのであろう。なお、寄贈品中の1905(明治38)年の書状によれば、令順氏は、篠山藩主から華族(子爵)となった青山家の職員をしていたようだ。篠山に移った堀内氏は、青山家に仕えて藩士となり、維新後も同家との関係を保ったのだと思われる。 |