≪解題≫
【史料種別】 特殊蒐書 |
【蒐書名】
美濃加納永井家史料
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【解題】
永井家史料は、徳川家康麾下の永井直勝の孫尚庸(なおつね)に始まり(2万石)、版籍奉還時は美濃国加納3万2000石を領した永井家の史料で、その祭祀を継承した小島光氏に伝存したものである。美濃加納永井家は、二代将軍徳川秀忠の「近侍の三臣」と称された永井信濃守尚政(山城国城主10万6900石)の三男尚庸を祖とする。尚庸の祖父右近大夫直勝は、家康に仕え、天正12年4月9日、長久手合戦において池田勝入父子(恒興・元助)を討ったことで有名である。尚庸は、寛永8年に生まれ、家綱幼少の頃の小姓などを勤めたが、萬治元年2月28日、父尚政の領地河内国茨田、讃良、若江4群のうち2万石の地を分与された。寛文5年2月18日、奏者番、同年12月23日、若年寄に就任した。同10年2月14日、京都所司代に転じ、1万石を加増されて、都合3万石を領した。その子直敬(伊賀守のち伊豆守)は、延宝5年遺領を継ぎ、貞享2年9月14日、奏者番となった。元禄7年11月15日、寺社奉行を兼ね、宝永元年10月朔日、若年寄に進んだ。この間、貞享4年10月21日下野国烏山、元禄15年9月朔日播磨国赤穂(3000石加増、都合3万3000石)、宝永3年正月28日信濃国飯山、正徳元年2月11日武蔵国岩槻と転封し、正徳元年6月3日に没した。その子伊賀守尚平は遺領を継ぐとまもなく没し(正徳元年8月29日)、その弟直陳(初め直信、伊豆守のち伊賀守)が後を継ぎ、元文4年9月朔日奏者番となり、宝暦6年5月21日美濃加納に転封となる。これ以後永井氏は、明治維新まで加納城主であった。加納城主としての永井家代々の事績は、『岐阜県史』(通史編、近世)に詳しいが、7代肥前守尚佐及び9代肥前守尚服は若年寄に昇進し、8代尚典は奏者番を勤めた。とりわけ尚服は幕末の困難な時期に重職に任じられたが、就任間もない時期に将軍慶喜は大政を奉還し、尚服も若年寄を辞して朝廷に恭順の意を表し、明治2年の版籍奉還の際には加納藩知事に任じられた。 本史料群は、藩庁にではなく家に伝存したものであり、藩主の家産に属するものである。したがって、分類し難い史料も多いが、A-幕府、B-藩主・藩政・家臣、C-絵図、D-和歌・詩稿、E-近代史料の五つに便宜上分類した。Aには、将軍の領地朱印、老中連署の領地目録の他、当主の役職に関連したもの(主として奏者番勤仕中のもの)、幕府の系譜改に際して提出した書類の下書控などを入れた。系譜改関係の書類は、Bに入れた家譜等との関係も深いが、幕府に提出したものの控と思われるものは原則としてAに入れた。 Bには、まず藩主の叙任任官に関するもの、家譜、氏神を祭る神社への書札留、腰物方の留帳、書状を入れた。これは藩主個人に関する色合いの濃い史料である。次に、領地関係書類、転封に際しての書類、藩制上の諸役人(家老・用人等)への下達、その他を入れた。これらの史料の伝存は、藩主自身の財産としての領地、あるいは藩主との主従関係によって結ばれた家臣という意識の存在を如実に示しているが、一方で、勘定所関係、群奉行関係等の史料がおそらく藩庁自体に残されたと想像されるので、藩主の家産とは独立した藩官僚機構の存在を見ることもできる。このことは、江戸時代の藩の二重の性格をよく示しているといえよう。 Cには絵図、Dには和歌・詩稿等の文芸関係をおさめた。Eは近代文書であり、永井家の明治に入ってからの動静がよくわかる。 参考文献 山本武夫・山本博文「美濃加納永井家史料について」(『東京大学史料編纂所報』第20号、1985年) |